Witness    ただ見守ること
■「観照」に関する2つの質問に答えた、OSHOの講話の抜粋です。


あなたの観照が頂点に達する瞬間
あるとき、澄み渡るほどの明白さをもって
思考は、ただ消え去る
あなたは完全な沈黙の内にあることだろう
あなたの意識が変われば
あなたを取り巻くすべての物事も変わる
── OSHO





愛するOSHO
時々、私は悲しみに打ちひしがれて沈んでしまいます。泣きだして、我が身を忘れてしまいそうです。あなたのおっしゃる、観ること、観照することとはどういうことなのか、どうか説明していただけますか。

 泣くことそのものに、何も間違っていることはない。しかし、脇に立ってその泣くことを観るのだ。――それに同化してはいけない。脇に立っていることができたら、それはすばらしい体験となるだろう。泣きなさい。抑圧することなく肉体が泣くにまかせ、涙が流れるにまかせておきなさい。抑圧は誰も救いはしない。脇に立って、観つめていることだ。それはできるはずだ――あなたの内なる存在は観照者であって、決して行為する者ではないのだから。自分の事を行為する者と感じるときには、決まってそこには同化がある。あなたは世界中を歩きまわれるが、内なる存在は一歩たりとも歩きはしない。何百万回夢を見ようと、内なる存在は一度たりとも夢を見ることはない。すべての動きは表面上のものだ。奥深いところでは、あなたの存在はまったく動かない。

 すべての動きは、車輪のように円周上で起こっている。だが中心では何も動きはしない。その中心では、何もかもがあるがままにとどまる。そしてそれを中心として車輪は動きまわっている。この中心を、おぼえておきなさい! 自分の振る舞い、動作、同化を観つめていることだ。すると距離が生まれてくる。少しずつ存在の中に距離というものがでてくる。観る者と行為する者が二つに分かれてくる。あなたは笑っている自分を見、泣いている自分を見、歩き、食べ、愛を交わしている自分を見ていることができる。周囲で何が起こっていようとあなたはありとあらゆことを演じることができ、――観る者としてとどまる。何を見ていようとも飛びついてそれと一つになったりはしない。

 欲深さを観つめ、性欲を観つめ、怒り、所有欲、嫉妬を観照しなさい。ただひとつ忘れてならないのは、同化しないということだ。ただ観る、ただみつめて、傍観者となるのだ。徐々に観照するという質が育まれていくことだろう。欲望のかすかな動きまでもすべてわかるようになる。あの非常に微妙なものをだ。あなたはいかにエゴが微妙に働き、その手口がいかに巧妙であるかを見れるようになっていく。それはおおざっぱなものではない。非常に微妙で、繊細で、奥深く隠されているものだ。

 観つめれば観つめるほど、あなたの目は物事を見てとれるようになり、洞察も鋭くなっていく。観照すればするほど、あなたは深く入っていくことができるようになり、そしてあなたがたとえ何をやろうともあなたとそれの間には、より距離が生まれていく。距離は助けになる。なぜなら距離がなければ、どんな知覚対象もあり得ないからだ。あまりに近くにあるものを、どうやって見ることができるのかね? 鏡に近づきすぎては写っているものも見れる筈がない。目をぴったりと鏡につけていてどうやって見ることができるのかね。距離が必要だ。そして観照する以外のなにものもあなたに距離を与えることはできない。まず観照してみることだ。

 セックス――それはなにも間違ったことではない。しかし、観照者としてとどまったままその中に入っていくことだ。肉体のあらゆる動きを観つめていなさい。流れ来ては出ていくエネルギーを観つめ、どのようにエネルギーが下へ流れていくかを観つめ、オーガズムを、何が起こっているのか、二つの肉体があるリズムの中でどうやって動いているのかを観照し、そして心臓の鼓動を、――しだいに速まっていきほとんど狂ったかのようになる、ある瞬間がやってくるのを観つめなさい。肉体の温もり、活発になっていく血の巡りを観つめなさい。狂わんばかりに、混沌としていく呼吸を観つめなさい。随意的であることの限界がやってきて、どんな事にも意志の力が効かなくなる瞬間を観なさい。あなたがそこからならまだ戻ってくる事ができるが、それを越えるともう戻ってはこれなくなるという、その瞬間を観なさい。

 肉体があまりにも機械的なものになっていくと、すべてのコントロールは失われる。射精の寸前で、あなたはすべてのコントロールを失い、肉体の支配下となる。それを観るのだ。随意的なプロセス、そして不随意的なプロセスを。あなたが自分のコントロール下にあって帰ってこれる瞬間にいたときには、もとに戻すことも可能だが、帰ってこれない瞬間には、もとに戻すのは不可能となる――今や完全に肉体の支配下にあり、もはや自分をコントロールすることはできない。あらゆることを観てみなさい。何百万もの事柄がある。どんなこともとても込み入っているが、セックスほど複雑なものはない。なぜならセックスには肉体―マインドのすべてが巻き込まれるからだ。ただ観照者だけが含まれていない。その一つだけは、常に外側にとどまっている。

 観照者は部外者だ。まさにその本質からして決して部内者にはなれない。この観照者を見つけだしなさい。そうすれば、あなたは丘の上に立っている……すべては谷間へと下り、あなたがそれらに関わることはない。あなたはただ観ている。どんな事があなたに関わっているだろう? あたかもそれが、他の誰かに起こっていることであるかのように。それは強欲や怒りについても同じことだ。どれも非常に複雑だ。否定的なものであれ、肯定的なものであれ、あらゆる感情を観ていることができたら、あなたはきっとそれを楽しむことだろう。ただひとつ、「観照者でいなければならない」ということは忘れずにいる。すると同化は打ち壊され、根は断ち切られる。そしていったん根が断ち切られ自分は行為する者ではないと思うようになると、すべてが突然変わる。だから、瞑想しているまさにそのときには観照者としてとどまり、起こっていることをずっと見続けるのだ……。

 ダイナミック瞑想とか、クンダリーニ瞑想とか、ワーリング瞑想のような瞑想をしながら、ある日突然、瞑想は続いているのに、あなたは同化していないだろう。あなたは静かに背後に座り、それを見ていることだろう――その日、瞑想が起こる。その日、テクニックはもはや障害ではなくなり、助けでもなくなる。もしあなたが望めば、それはエクササイズのように楽しむこともできる。それは、ある活力を与えてくれる。しかし、今やその必要もない。――真の瞑想が起こったのだ。

 瞑想とは、観照することだ。瞑想することとは、観照者になることだ。瞑想はテクニックなどではまったくない! このことはあなたを混乱させることだろう。何しろ私はテクニックを与え続けているのだからね。だが究極的な意味において、瞑想はテクニックではない。瞑想はあるひとつの理解、アウェアネス(覚醒)だ。しかし、あなたにはテクニックが必要だ。なぜなら、最終的な理解はあなたからとてもかけ離れたところにあるからだ。あなたの奥深いところに隠されていて、なおかつ、あなたからとてもかけ離れたところにある。

 今、この瞬間にもあなたがそれに到達することはできる。だが、あなたが到達することはない。あなたの時間は流れ続け、あなたのマインドが流れ続けているが故にだ。まさにこの瞬間にもそれは可能でありながら、まだ不可能なのだ。テクニックがそのへだたりに橋を架けることだろう。それはただ、そのへだたりに橋を架けるためにだけある。

 だから始まりにおいてはテクニックが瞑想だ。だが最後にはあなたは笑うだろう。テクニックは瞑想ではないと。瞑想とは、実在のまったく異なった質だ。それは他のどんなことにも関係がない。だが、それは最後に起こることだ。最初からそれが起こるだろうと思ってはいけない。さもなければ、そのへだたりに橋が架かることはないだろう。

OSHO「Tantra: The supreme understading 存在の詩」





 愛するOSHO
 なぜあなたは観照することをそれほどまでに強調するのですか。

 観照することは、はじめのうちは難しいかもしれないが、どんな危険もない、もっとも安全な方法だ。それは、あなたを光明以外のものに導くことはない。
 観照することはもっとも単純でもっとも絶対確実な方法であり、あらゆる瞑想法の本質だ。

 私は誰にも、精神性という名のもとにトラブルに巻き込まれてほしくはない。ゆえに私は、ただ純粋な観照を示唆する――それもとても遊びに満ち、深刻でなくユーモア感覚をもって――。
 もしあなたが忘れたしても、そこにはどんな害もない。いつでも思い出したときに、また始められる。あなたは幾度となく忘れ、幾度となく思い出すことだろう。そこには罪の問題はない。それが人間だ。非常にゆっくりとだが、大きく、より大きくとあなたの中で観照の空間が、起こるだろう。そして観照する空間が大きくなるほど、あなたの思考はより小さく、小さくなっていく。

 あなたの観照が頂点に達する瞬間、あるとき澄み渡るほどの明白さをもって思考はただ消え去る。あなたは完全な沈黙の内にあることだろう。あなたが何をしていようと、その沈黙は邪魔をすることはない。それどころかあなたの仕事の腕は上がり、創造的な試みがより為されていくことだろう。
 もし自分が彫像を作っていたり、絵を描いていたり、音楽を奏でていたりしているとして……そのような狂気じみたマインド、ありとあらゆる種類の思考が駆け巡っていながらもまだ、あなたは美しい音楽を創造しようとすることができる――ちょっと静かなマインドでいる時のことを考えてみてごらん? どれほどずっと深みと高みをもった音楽が生まれてくることか。

 同じことが人生のどんなところにも当てはまる。私は強調しよう。覚えておきなさい、あなたの瞑想が正しければ、人生のあらゆることがより良い形をとっていくということを。これが唯一の判断基準だ。他の誰かに尋ねる必要はない。自分自身で知ることができる。
 瞑想によって、あなたの人生のすべてがより良いものとなっていく。瞑想がその最高点に達したとき、あなたの努力のすべては、想像できないほどの美しさ、優雅さ、そして創造性を帯びてくるだろう。だから私は、精神生活と普通の生活を分け隔てしないようにと言うのだ。どんな分裂も絶対に作り出してはならない。この人生をひとつのまとまったもののままにしておく。

 だから、あなたの意識が変われば、あなたを取り巻くすべての物事も変わる。
 たとえはじめのうちは観照することが難しくても、あなたが行なうにつれ、とても簡単になっていくだろう。
 ゴータマ・ブッダは言っている。「私の教えは初めは苦い、だが終りには甘くなる」と。

OSHO「The Sword and The Lotus」


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